MU_Ba-ba’s diary

あ~ちゃんへ

”個性”について思う

あ~ちゃんはばぁばの初孫だから今時の赤ちゃんとしては発達が早いのか遅いのかよくわからないけど、まだ2歳にならないあ~ちゃんがもう話せて歌えて踊れて、へちまにじょうろで水をやるのが自分の役割だと知ってて、スマホの幼児向け動画を自分で選んで見てて・・・てなことが普通というのにびっくり仰天してる。

生まれたとき、頭が大きくて産婦人科のお医者さんを悩ませたあ~ちゃんは1歳9ヵ月の今もやっぱり頭が大きくて3.5頭身ぐらい。立ってるとき、姿勢を保つのにふにゃふにゃ全身でバランスをとってる。ちょっと押されたら倒れてしまいそうで心もとない感じだ。

1年早く生まれた姪の子Iちゃんは同じぐらいのころ、とんでもなく動きが機敏で力強かった。手足も長いし『体幹がしかりしてる』って言葉が自然に浮かんでくるような子だった。

Iちゃんとあ~ちゃんの違いはどう考えても生まれながらの素質の違いによるものじゃないかとばぁばは思う。

実はばぁばも小さいころ、どこか弱々しい感じの子だったんだ。

痩せっぽちで体力がなくて家の中で一人遊びばかりしていた。みかねた(ばぁばの)母さんに『外で遊んでおいで!』と追い立てられてしぶしぶ近所の子どもたちに合流するも、30分もしないうちに疲れてはてて帰ってしまった。

後で分かったことだけど、当時ばぁばは知能指数がかなり高かったらしい。(小学校2年生のとき母さんは担任の先生から『知能指数が”異常”に高いので、子どもだから分かるはずがないと思わないように。勉強は後回しでいいから子ども同士できるだけ外で遊ばせるようにしてください。』と言われたんだとか。今はその片鱗もないけどね・・・トホホ。)

子どもが摂取できる1日のエネルギーには限度がある。人の一生で最も成長率の大きい幼児期に例えば筋力だったり脳神経だったり、一部の機能が爆発的に成長すると他に回る分のエネルギーが不足するんじゃないか?てなことをばぁばは考えてしまう。

さらに言えば、生まれながらの素質による指向性の違いは初めはほんの少しの違いでも、無意識の選択により特定の経験が積み重なれば、当然、成長とともに強化され大きな相違になってくると思う。

さて、ここで質問。『幼児期の指向性は矯正した方がいいの?』

個性は教育によらない部分が大きいし、”体質”に近いところから始まってるとしたら、”(一律)平等”な教育は弊害が大きいって気がするんだ。不得意なものを無理強いされて自己受容できない人になってしまっては大変だ。

誤解のないようにいえば『教育は個性を磨き、輝かせるためにある』と思ってる。幅広い知識と経験の補完という役割もあるかな。

ただ、今のところ学校教育は知識量と処理能力の強化に大半の時間が費やされていて、つまり将来の良質な労働力生産が主目的なんだろうな、と思えてならない。

でも・・・とばぁばは思う。『世界は多種多様な人がいろいろな役割を果たすことで成り立ってるんじゃないの?』と。

だとすれば、得意分野を伸ばしてもらった方が社会全体のレベルが上がるんじゃないの?・・・ひとつひとつ色の違う画素が適所にたくさん集まって”画面”ができるようなイメージかなぁ。

とはいえ、人はどうしてもマウンティングがしたい生き物だから、デジタル画面のようにいかない。単一の指標で優劣を競いたくてしょうがないんだろうね。現在の”いい職業”について他の人より上にいたいって願望には抗えない。(共産主義社会がうまく機能しなかったのはそのためだと思う。)

コロナ禍の経験から、ベーシック・インカムについて考えたけど、『得意分野』を伸ばした仕事で食べていける世界だったら教育の目的も変わるのかな、と思えてきた。

あ~ちゃんの生きていく次の100年はどんな世界なのかわからない。ただ、幸せに暮らす人が増えてることを祈る!